先日、スペーシアでの初めてのグループレッスンがありました。
フェルデンクライスメソッドのレッスンは動き自体はとてもシンプルなのですが、同じ動きをイメージややり方を変えて動くということをよくします。
今回のレッスンでも、動きの指示は「右のお尻を床から持ち上げて降ろす」という単純な動きなのですが、動きは同じでもやり方を色々変えて動くというレッスンでした。
参加者の方からも、
「やり方は一つではないんですね」
「いつもと違うやり方で動いていくとできるようになった」
という気づきがあったようでした。
でも、どうしてこういうことをするのでしょう?
何か問題があったときのことを考えてみてください。
それを試みたけど上手くできない時です。
1つのやり方しか知らなかったらできない~で終わってしまうかもしれません。
でも、もう一つのやり方、さらに3つ目のやり方・・・
というように別のやり方を多く知っていたとしたらその問題を解決できる可能性は高くなるわけです。
モシェ・フェルデンクライスの言葉に
本当に重要な学習はすでに知っていることを別のやり方できること
というのがあります。
それについての有名なエピソードをご紹介したいと思います。
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モシェが汽車に乗っていたときのことです。
たまたま隣り合わせになった男が本を読んでいました。
彼は美しく、知的で、一見して教養のある人間に見えました。
ところが、彼は本を逆さまにもって読んでいたのです。
その男はひじょうに興味を持って明らかに読んでいるのです。
モシェは彼を見て、この男は馬鹿なのだと考えました。
「読んでいるのですか?」
とモシェは訊ねざるをえませんでした。
するとその男は
「読んでいるとは思わないのですか?」
と答えます。
「だって、そんなふうにして読めるのですか? 本を逆さまに持っているではないですか!」
モシェが言うとその男はこう言いました。
「逆さまとはどういうことでしょう?どちらを上にするのが 正しいのでしょう?」
モシェが戸惑っていると男は
「私たちの住む町には聖書が一冊しかありませんが 子供たちはみんな読み書きを習わなくてはなりません。
そこで先生が一冊の本を持って、子供たちはその周りに座ります。
先生は本を広げてみんなに見せます。
一人一人は違う角度から 本を見ますが、時々場所を入れ替わることになっていますから誰もがどんな角度からでも読めるようになります。
私たちにとって逆さまなんてものはありません。
どんな角度でもいいのですから
みなさんは一つの角度からしか本を読めないのですから、愚かなものということになります。
大学まで行っているのに本を一方からしか読めないのです。
私には読めます。
どっちから見てもoはoで、eはeです。
字のパターンが分かればいいのです」
私たちはすべての可能な組み合わせの中から一つだけを選び、本の天地を決めてしまい、他の角度で読むことはできなくなっています。
彼は高校にも大学にも行ったことがありません。
でも、私たちより一定の世界を見るために目と頭と体の使い方を細分化させることができます。
*このエピソードについては 心をひらく体のレッスン―フェルデンクライスの自己開発法 より一部抜粋させていただきました。ありがとうございます。
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もし、上手くいかないことがあったとしても、それはすべての可能な組み合わせの中の一つができなかったにすぎないと思うのです。
でも、一つのやり方しか知らなくて、それが失敗するともうダメだ~と思ってしまう。
あの人もできているのに!この人もできているのに!
自分はできてないじゃないか~!と劣等感を積み重ねてだんだん自分を信頼することができなくなってしまう・・・
一つのやり方に留まらず別のやり方を探してみる、さらに自分だけのやり方が見つかればもっとハッピーだと思いませんか?
体だけではなく、気持ちや考え方の面でもそうなるところがフェルデンクライスメソッドの魅力の一つだと思います。